「日本以外の地でコシヒカリを良質に育てることはできない」──かつて日本の一部の農業関係者は、日本を代表する食用米であり、いくつかの日本のクラフトビール、とりわけ国際的に流通するラガー「コシヒカリ越後ビール」にも使われているこの米について、そう信じて疑わなかった。スワンレイクが醸す「こしひかりビール」もまた、その好例の一つである。だが1990年代、ある農業会議の席で、日本の米経済学者が6代続くアーカンソー州の米農家の長にこの話を伝えた際、その農家は前提を覆そうと動き出した。当時、米国農業史のなかではほとんど目立たない一段落にすぎなかった彼の決断は、いまや米国、日本、さらにはその先のビール産業を一変させかねない新たな展開の一翼を担おうとしている。
ライスラガーの歴史を詳述する前に、まずは「Isbell Farms(イスベル・ファームズ)」と呼ばれるアーカンソーの家族経営農場の物語を掘り下げてみたい。Sake Today誌第38号(2023年秋)の長時間インタビューに基づくと、酒類との関わりにおける同農場の歴史は、農家のクリス・イスベルから始まる。クリスの曽祖父が19世紀末、この田舎の州で開墾を始めたのが始まりだ。ご存じない方のために付け加えれば、アーカンソー州は米国の「米どころ」であり、米国全体の米生産量のおよそ50%を産出している。1946年に農場で初めて米を植えたのはクリスの父親で、現在は孫のハリソン・ジョーンズが家族としての農場へのコミットメントを引き継いでいる(そして今、クラフトビール醸造家との連携を取りまとめる役を担っている)。

クリスが指摘するように、日本品種の米は1900年代初頭にアーカンソーで栽培された最初期の米のひとつであり、その始まりは「Unnamed Japanese Variety(無名の日本品種)」と表記された系統だった。多くの農家がこれを交配に用いたが、クリスはおそらく渡船(わたりぶね)と呼ばれる品種だったのではないかと考えている。言い換えれば、コシヒカリが米国で育たない理由は何もなく、まして高温多湿で稲作に適したアーカンソーであればなおさらである。1990年に種子を入手し、最初の田を首尾よく作付けすると、彼らは西本貿易(現在は「Wismettac Asian Foods(ウィズメタック・アジアン・フーズ)」として営業しており、米国へアサヒビールやコエドビールも輸入している)にサンプルを送った。同社はその米に十分な手応えを感じ、最終的には米国内での販売も始めることになった。
「米国のど真ん中でコシヒカリを『奇跡的に』育てている家族」の物語が日本に届くと、関心が一気に広がり、新聞記者やテレビ番組の制作者がこぞって取材に訪れた。とくにNHKは1990年代初頭、イスベル一家を題材に90分のドキュメンタリー番組を制作している。間もなくして、日本人を満載した観光バスが農場を訪れるようになった。
クリスはこう振り返る。「お米を振る舞って、農場をご案内し、ご希望の方にはショットガンも撃っていただきました」
当時10代だった娘のウィットニー──現在のハリソンの母親──はバスに乗り込んで司会役を務めたという。さらにファミリーマートは、農場で栽培され日本へ輸出されたコシヒカリを購入した客にイスベル・ファームズへの旅行をプレゼントするキャンペーンを実施した。米袋にはイスベル一家の写真があしらわれていた。
1990年代後半、彼らを取り巻く状況は一変する。カリフォルニア州でコシヒカリの栽培が始まり、さまざまな物流上の事情から同州が米国におけるコシヒカリ栽培の中心地となっていった。イスベル家自身、2000年代に入るとコシヒカリをほとんど作付けしていなかったと振り返る。米国では寿司の人気も急上昇していた時期で、栽培しやすく、より安価な「カルローズ」という米国品種が、多くの人にとって手頃な定番米となっていった。
2000年代は、日本品種の米栽培という観点ではイスベル家にとって比較的静かな時期だった。クリスが明かすところによると、ひとめぼれ、あきたこまち、日本晴(にっぽんばれ)を小区画で少量ずつ栽培したことはあったものの、コシヒカリ時代の魔法を再現することはついぞなかったという。そんな折、クリスは日本での会議に出席し、日本酒用の米として最も評価の高い品種・山田錦の話を耳にする。興味をかき立てられた彼は、2000年代半ばに約100グラムの種子を、検疫を経て持ち帰った。
クリスはそれを試験区画に植えたが、こう笑う。「農業経済学的にはとんでもない代物でした! 4フィート(約1.2メートル)ほどに伸びて倒伏するし、栽培も収穫も難しい。販売先のあてもなければ、米国にそもそも市場があるのかどうかすら分かりませんでした」
5年かけて貯えた在庫はわずか30ポンド(約13.6キログラム)。それを将来のために冷蔵保管しておいた。さらに5年が経った頃、突然「Takara Sake」から電話が入る。山田錦をお持ちですか、と。
「彼らがどこで私のことを知ったのか、まったく見当もつきません」とクリスは話す。「電話の2日後にはここに来ていました。先方は5エーカーほしいと言っていましたが、こちらの種ではそんなに作付けできなかったんです。1エーカーを植えて収穫し、翌シーズンに5エーカーまで増やしました。それで先方が一仕込みするには十分な量になりました」
「Takara USA(カリフォルニア州バークレー)」は当時、プレミアムな大吟醸酒の開発に取り組んでいた。米国で日本食レストランや日本料理が広がっていく数十年のあいだ、同社は普通酒の主要供給者としての地位を築いてきた経緯がある。クリスは、最終製品の味わいの素晴らしさに驚いたと語る。その酒はその後、数々の賞を受け、大量生産型の醸造元であるTakara USAも、プレミアムな酒を醸す力を十分に備えていることを見事に示してみせた。
面白いことに、その電話を受けるまでイスベル家はTakara USAの存在すら知らず、米国にほかの酒蔵があることも認識していなかった。実際、まるでクラフトビールムーブメントの反響であるかのように、米国全土で小さな酒蔵が次々と現れ始めていた。その一つ、「Origami Sake(オリガミ・サケ)」は、地元出身のベン・ベルが南部美人(岩手県)で修業した夢の結晶として、なんと同じアーカンソー州のホットスプリングス市に設立されている。
今や米国には30を超える酒蔵があり、新規参入もさらに見込まれている。そのなかには非常に質の高い蔵も少なくない。イスベル・ファームズは、米国のこれらの酒蔵の多くに山田錦をはじめとする酒造好適米を供給するだけでなく、欧州と南北アメリカ大陸にあるいくつかの酒蔵にも原料を届けている。さらに同農場は、日本から最新鋭の機械を導入した精米事業にも取り組んでいる。これもまた、イスベル一家を今、クラフトビールムーブメントへとつなぐ物語の一部なのだ。
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米国の酒造シーンが過去10年で成長し、多様化を遂げる一方で、米国のクラフトビールシーンでも米(その他の副原料を含む)をめぐる興味深い動きが生まれていた。まず特筆すべきは、米を用いたラガーをクラフトブルワリーが手がける流れがきわめて顕著になってきたことだ。実際、2026年のワールド・ビア・カップ(WBC)の主催者は新たに「ライスラガー」部門を設け、91エントリーが集まった。これらのビールを醸す米国のブルワリーの多くが、自らのビールを「Japanese rice lager」「Japanese-style lager」あるいはシンプルに「Japanese lager」と称している。彼らは意識的に、日本のライトラガー──むろん、その大半は大量生産型の巨大ビールメーカーの製品だが──にオマージュを捧げているのだ。今年のWBCで銅賞を獲得したオレゴン州のpFriem(フリーム)の「Japanese Lager」は、自らを「日本の伝統に倣い、米とともに醸造」と紹介している。だが、日本国外のクラフトブルワーが思い描くこの「伝統」が実際には何を指すのか──そもそも日本国内におけるその「伝統」とは何なのか──は、それほど明確に定義されているわけではない。ここには、解きほぐすべき多くの層が重なっている……
まず興味深いのは、ここ10年ほどで日本の大量生産型ビールメーカーが、米国のクラフトビールに通じる、よりプレミアムで、風味の豊かなビールへと舵を切ってきたことだ。なかでも代表的なのがキリンで、その子会社「スプリングバレーブルワリー」はクラフトブルワリーとしての立ち位置を取り、自社のビールをめぐる国際的な賞レースでも静かながら確かな存在感を示している(今年のWBCでも金賞1つと銀賞1つを獲得している)。

米国のブルワリーは、自覚の有無にかかわらず、日本の大量生産型ビールメーカーが大きく形作ってきた「伝統」を追いかけている。一方、日本のクラフトブルワリーの多くは優れたピルスナーやラガーを醸しているが、日本の大量生産型ビールが体現する個性をとらえようとするライトラガーを造るところはごく少数だ。日本のクラフトブルワリーが米を用いたビールを造る場合、そのほとんどは清酒への視点を伴っている──つまり酒米、麹、酒粕、清酒酵母などを使うのである。志賀高原ビールが自家栽培のみやま錦を用いて醸す「みやまブロンド」はその好例だ(ただし、これがラガーではない点も注目に値する)。大山Gビールも複数の米使用ビールを手がけており、代表作は地元の山田錦を用いた「八郷(やごう)」だ。日本には古く、神聖な清酒の伝統が根づいており、日本のクラフトブルワリーのうち数十社が酒蔵でもあることを考えれば、これも驚くにはあたらない(志賀高原ビールも大山Gビールも、いずれも歴史ある酒造会社の事業の一翼を担っている)。
むしろ驚くべきは、日本のライトラガー的な個性を映し出すクラフトビールを日本で探すなら、米国から日本へ輸入されているビールのほうが見つけやすいという事実だろう。最近の例としては、Bare Bottle(ベアボトル)の「Kyoto Crush」がある。同社オーナーのレスター・コガは、近頃、日本へ頻繁に足を運んでいる人物だ。日本にも輸出しつつライスラガーを造っているブルワリーには、ほかにChuckanut(チャカナット)、Sante Adairius Rustic Ales(サンテ・アダリウス・ラスティック・エールズ)、Fieldwork(フィールドワーク)、Faction(ファクション)などがある。
しかし、改めて問おう──日本における「ライスラガーの伝統」とは、いったい何なのか。ジェフリー・アレクサンダーが2013年の著書『Brewed in Japan』で指摘するとおり、20世紀の日本人は、戦時中の麦芽配給制限によって軽くなったラガーに馴染んでいった(この点は後述する)。第二次世界大戦後の経済復興期、日本のビール消費量は飛躍的に伸び、世界各地でも条件の違いこそあれ、軽いライトラガーが標準となっていく。1950年代末、日本ではビールの消費量が清酒を超え、それが逆転することはなかった。シャープでドライ、爽やかな個性を備えるこれらのビールは、その特徴の一部を、米を含む(ただし米に限らない)副原料によって獲得していた。米はけっして「主役」として打ち出されるものではなく、また穀物全体に占める割合が大きいわけでもない──麦芽が穀物全体の3分の2以上を占めるのが通例だ。
こうしたライトラガーの一つの到達点が、1987年に発売され、多くの人から「日本を象徴するビール」と認識されているアサヒスーパードライである。そのとてつもない成功は、ブルワリー各社が類似品の市場投入を急ぐ「ドライ戦争(dorai sensō)」の幕を切って落とした。アサヒは「アサヒスーパードライは、最高品質の麦芽、ホップ、酵母、そして米を使用して醸造されています」とためらいなく明言している。米の正確な配合比率は企業秘密だが、おそらく10%強と見られている(日本の酒税法による副原料の使用制限と醸造化学に基づく推測、加えて同ビールのクローンを試みたブルワーの推定では10〜20%の範囲との見方が多い)。
アサヒスーパードライと並んで注目に値するもう一つのブランドが、現代版でも米を使用しており、その起源は1888年にさかのぼるキリンラガーだ。キリンの公式サイトでも触れられているとおり、米は1890年代後半から日本のビールメーカー各社で副原料として使われてきた。これは、良質な麦芽を入手するためのコストや手間が一因だった。1940年には、戦争に伴う米不足に対処するための法改正があり、コーンなどほかの副原料の使用が増えた。さらに、それ以前は副原料の量が麦芽重量の10分の3に上限が定められていたが、改正後はその上限が2分の1まで引き上げられた。1944年にはついに米そのものが入手できなくなり、ビールは麦芽と「澱粉」だけに頼ることになって、いっそうライトな仕上がりとなった。1877年発売の日本最古のブランド「サッポロラガービール(赤星)」も現代版ではライスラガーであり、サッポロのポートフォリオに並ぶいくつかのほかのブランドも事情は同じだ。むろんそれらも、こうした歴史を共有している。
一方、サントリーは1986年にオールモルトビール「サントリーモルツ」を投入し、続いて1989年には「ザ・プレミアム・モルツ」を発売した。負けじとキリンも1990年にオールモルトの「キリン一番搾り」をデビューさせている。それより前の1971年、サッポロは独立した醸造元だった「ヱビス」を、ドイツのビール純粋令(ラインハイツゲボート)の精神(大麦・ホップ・酵母・水のみ)にのっとって復活させ、戦後の日本で初めてこの基準を満たすビールとした。「ドライ戦争」は続いていたとはいえ、日本の消費者がドイツ式ラガーを手放すことはほとんどなかったのである。
日本ではオールモルトの大量生産型ビールが今も根強い人気を保ち、プレミアムなものとしてとらえられている──それは、より際立った風味への消費者の感覚と同じくらい、マーケティングの成果でもある。こうしたビールは、19世紀末から20世紀初頭にかけてのドイツ式醸造の伝統への回帰でもある(あるいは、1870年に横浜でのちにキリンとなる醸造元を創業したノルウェー系米国人ウィリアム・コープランドのように、米国経由のドイツ式伝統への回帰でもある)。日本のビール醸造の伝統は、結果として、日本国外で多くの人が思っている以上に多様なのだ。
日本のビールの伝統を考えるうえで、オールモルトビールが及ぼした影響は記憶にとどめておくに値する。そして、いわゆる「ライスラガー」を考える際には、二つのことに目を向ける必要がある。一つは、クリーンでドライな個性を生み出す副原料の構成には、米以外のものも含まれていた──そして今もそうである──ということ。もう一つは、第二次大戦以降ライトラガーは普通の存在ではあったものの、日本国外の人々が「ライスラガーの伝統」と結びつけて連想するドライなラガーが目立つようになったのは、ここ数十年に過ぎないということだ。とはいえ、日本のライトラガーが大衆の嗜好性を圧倒的に支配してきたことに疑いの余地はない。そして、米国の優れたクラフトブルワリーの一部が「日本式」の米使用ラガーを再現したいと願うこと自体、日本の大量生産型ビールメーカーへの敬意の表明にほかならない。
これで、ライスビールをテーマにした連載企画の第1回が幕を閉じる。次号では、米国におけるライスビールの奥深い歴史、イスベル・ファームズ(およびそのほかの面々)がライスビールの歴史に新たな1ページを加えていく様子、そして業界はいま大きな変革の入り口に立っていると確信するアーカンソー大学のある教授について取り上げる予定だ。次号もぜひ、お付き合いいただきたい。


