「そしてふと自分自身に尋ねるだろう
『一体どうしてこうなった?』と」
ーアメリカのロックバンドTalking Headsの『Once in a Lifetime』より
日本のクラフトビールの30年間は、振り返るに値する節目である。今日に至るまで、どのような道を歩んできたのか? そもそもどのようにして始まったのか? そして、未来に向けて何を学ぶことができるのか? これは、経済の大幅な自由化、酒蔵、結婚式場やホテル、観光事業、型破りな起業家たち、数多くのドイツ人ブルワーたち、チャンスと欲望、そして最終的には不屈の精神が織りなす壮大な物語である。筆者が長年にわたり調査してきたこの物語を覚えている限り、ここで語らせてもらいたい。
起源
1990年代初頭、日本はその数年前に起こったあのバブル崩壊から回復しつつあった。政府は競争を促し、日本経済を立て直すために、大規模な自由化措置を実施した。この措置は銀行業から通信業、そして醸造業にも影響を与えた。1994年になると、醸造業に関する法律が改正され、年間6万リットルのビール生産能力があると証明できる醸造所には、醸造免許が発行されるようになった。ビール自体は、ほぼドイツの伝統に基づき、水、麦芽、酵母、ホップを原料とするものと定義された。また、別の免許として「発泡酒」(発泡酒とは簡単に言うと、果物やハーブ、野菜などの副原料を使用したビールのこと)用の免許も設けられ、これは年間6千リットルの生産能力があれば取得可能になった。1994年の酒税法改正まで、ビールの製造免許を得るには、最低2百万リットルの生産能力が求められており、これは完全に産業レベルの規模だったため、日本には長年にわたり、少数の大手の大規模ブルワリーしか存在しなかったのである。そのため、一般人にとってブルーパブを開業するのは夢にも思わないことで、消費者の間でも「地元」のビールという概念は存在しなかった。
この法改正を受け、日本各地でビジネスチャンスを求める企業が次々とブルワリーを設立し、ビール販売の競争が始まった。最初に誕生したのが新潟のエチゴビールで、1995年2月のことであった。その後、数ヶ月から数年の間に数百もの小規模ブルワリーが誕生し、当時「地ビール」と呼ばれた。英語では「マイクロブルー」(小規模醸造)という言葉が使われていたが、日本酒業界の「地酒」の概念を応用し、「地ビール」という名称が定着した。「地酒」という言葉は1970年代に生まれ、1980年代に本格的なブームとなった。これは、小規模な地域密着型の酒蔵がこだわりのある地元産の日本酒を指していた。同様に、地ビールも小規模ブルワリーが丹精込めてつくる地域密着型のビールとして広まった。
多くのブルワリー、特に副原料の使用が義務付けられていた発泡酒の免許を持つブルワリーは、地ビールを「地元産の原料を使用したビール」と解釈し、その理念に基づいて醸造をおこなった。彼らは主に地元産の果物やハーブを使用し、時には野菜や海藻といった珍しい原料を取り入れた。一方、ビール製造免許を持つブルワリーは、ドイルの醸造伝統やビアスタイルに基づいてビールをつくる傾向があった。その理由については後述する。

筆者は1995年当時、名古屋の南山大学の学生で、地ビールが登場したことをなんとなく覚えている。観光地ではお土産屋やキオスクでよく見かけたが、当時の地ビールは特に印象に残らなかった。それも無理はなかった。地ビールが筆者の記憶に強く残るようになったのは、1997年に日本で初めての仕事に就いてからだった。当時、多くのブルワリーはまだ試行錯誤の段階で、本格的にビールづくりを理解しているところは少なかった。
アメリカでは優れた腕を持つ自家醸造家たちがプロのブルワーに転身することは珍しくない。しかし、日本では自家醸造が合法ではなかった(現在も違法)。そのため、ブルワリーの開業を計画する企業の中には、将来のブルワー候補を海外に派遣し、数週間から数ヶ月の短期集中講座を受講させるケースもあった。また、起業志向の強い者が個人で海外へ渡り、醸造を学ぶこともあった。しかし、もっと一般的だったのは、明治初期(19世紀後半)のように、海外から技術者を招聘する方法だった。
外国人ブルワーは数週間から数ヶ月滞在し、スタッフの教育をおこなった。場合によっては、外国人ブルワー自身が一定期間ビールをつくり、その後日本人スタッフに引き継ぐこともあった。こうした醸造指導者として最もよく雇われたのは、やはり醸造において長い伝統を持つドイツ人だった。1990年後半には、日本国内に数十人のドイツ人ブルワーが在籍し、彼らが独自の組合を結成していたことさえあった。
彼らの多くは日本に長く留まらなかったが、その功績は今もなお残っている。興味深い例として、エチゴビールの初代ブルワー、マルクス・ルツィンスキーは現在も日本にいる。ただし、彼はすでに醸造現場を離れ、自身が代表を務める株式会社BETを通じて醸造設備の提供や設置を手がけている。初期の日本のクラフトビール業界にはドイツ人ブルワーが多く、日本のブルワーたちは彼らから学んで、ドイツスタイルのビールを醸造することが一般的だった。ケルシュやアルトは至るところで見られ、ヴァイツェンもメニューによく並んでいた。しかし、現在ではアメリカの影響が強まり、これらのスタイルはあまり見かけなくなった。それでも、特に歴史のあるブルワリーでは、現在もドイツの影響の名残を垣間見ることができる。
では、どのような企業がクラフトビール業界に参入したのか。実に多様な業種の企業が参入し、中には参入しないほうがよかったと思われる企業も少なくなかった。多くの企業は良質なビールをつくるよりも利益を優先し、クラフトビールへの情熱を持って参入した企業はごくわずかだった。

例外だったのは酒蔵かもしれない。彼らはすでに醸造の知識を持っており、ビールづくりもそれほど大きくは違わない。なによりも、衛生管理や品質管理の重要性を深く理解していた。さらに、日本酒が主に冬の商売であるのに対し(暖かい季節の間は休業する酒蔵が多い)、ビールは夏に需要が高まるため、ビール醸造を始める合理的な理由もあった。マーク・メリの著書『Craft Beer in Japan: the Essential Guide』(2013年)によると、当時日本に数百あったブルワリーのうち、約4分の1が酒蔵だった。その初期の酒蔵系ブルワリーの中でも、国際的に認知されるまで成長した代表例が常陸野ネストビールを手がける木内酒造だ。一方、伊勢角屋麦酒は、異なる背景を持っていた。1575年創業の家族経営企業で、ビール醸造を始めるずいぶん前から味噌や醤油の醸造をおこなっており、すでに発酵に携わっていた。
buy generic lyrica観光業も多く参入した。観光地を管理運営する経営者たちは、地ビールを観光客誘致の手段として考えた。実際、ビール業界内で「温泉ブルワリー」と呼ばれる現象も見られた。全国各地にある観光農園も地元特産品を活かしたビールを開発した。ホテル業界も参入し、特にブライダル業界と結びつき、結婚式の披露宴で地ビールの提供をおこなった。
筆者が初めて強い印象を受けた地ビールは、福岡市の城山ホテル(現在は鹿児島県の桜島に移転)の城山ブルワリーで味わったビールだった。1997年当時、筆者は大学卒業後、城山ホテル近くの国際センターに勤務していた。そこで味わったフルーティーでハーブの風味を持つビールの美味しさは今でも鮮明に覚えている。当時の醸造担当、倉掛智之は現在も在籍し、スタイルの幅を広げながら美味しいビールをつくり続けている。
暗黒時代
1997年には、最初の地ビールブームがすでに失速し始めていた。この時点で倒産や事業撤退する企業が現れ、その後数年間で100を超えるブルワリーが姿を消した。
品質の低さと安定性の欠如が主な原因だった。さらに、そのような商品が高価格で販売されていたことも問題だった。雑菌の混入や製造ミスによって不快な味がするビールに、消費者が倍の値段を払う理由はなかった。それなら、日本の大手メーカーがつくるラガービールを飲み続けたほうがよほどよかった。こうして地ビールの評判は地に落ち、その悪いイメージを払拭するのにほとんどの地域で約10年を要した。日本のマイクロブルワリー業界は、暗黒時代を迎えた。
しかし、ヨーロッパの暗黒時代と同様に、科学や思想の進歩が止まったわけではない。平安時代の貴族社会が崩壊し、『源氏物語』や美しい宮廷和歌を生み出した文化が衰退しても、その後数世紀にわたり文化的な発展は続いた。表面的には衰退していたように見えても、その裏で着実に前進していたのである。
幸運にも、ブルワーと経営陣が学びと改良に真剣に取り組んだブルワリーもあった。常陸野ネストビールのほか、酒蔵からは志賀高原ビール(玉村本店)が登場した。スワンレイクビールは、今日まで家業を通じてブライダル業界とつながりを持ち、同業他社を大きく上回る成長を遂げた。彼らのポーターは現在も筆者のお気に入りの一つである。また、東京ディズニーランドのすぐそばにあるハーヴェスト・ムーンは、醸造責任者の園田智子の手腕によって成功を収めた。さらに、日本で最も成功したクラフトビールブルワリーの一つであるヤッホーブルーイングも、リゾート事業の一環として誕生した。
農業界における私のお気に入りのエピソードの一つが、飛騨高山ビールの話だ。筆者は2011年に岐阜の田舎にある彼らの農場を訪れ、飛騨高山ビールのオーナーであり畜産農家でもある安土則久に話を聞いた。彼は当時、ビール醸造の知識はほとんどなかったが、未使用の乳製品用タンクをビール醸造に転用できないか考えていた。そこに、東京農業大学卒の友人がドイツで醸造を学んだスリランカ出身のブルワー、パドマを紹介した。二人は意外にもベルギースタイルのビールをつくりはじめ、当初から美味しく、今でも高い評価を得ている。パドマは7年間在籍し、飛騨高山ビールに安定性をもたらした。
ブルワリーは、単にビールをつくるだけの場所ではない。経営が伴うビジネスでもあり、その課題を乗り越えなくてはならないが、多くのブルワリーが失敗した。一方で、すでに酒類業界や流通業界とつながりを持つ企業は、その経験や人脈を活かせる大きな強みがあった。その代表例が1990年代後半に設立された箕面ビールだ。創業者の故・大下正司は2012年に他界するまで事業を牽引し、その後、醸造を担当していた長女の香緒里が後を継いだ。大下は、ブルワリー設立前に数十年にわたり酒販店を経営していた。大阪の消費者は倹約家として有名であり、箕面ビールも30年の歩みの中で多くの苦労を経験してきた。ビール醸造のビジネスは、本当に厳しい。

2001年、筆者は開業間もない静岡県沼津市のベアードブルーイングを訪れた。ブライアン・ベアードは、当時まだ数少なかったブルワー兼オーナー兼起業家という新たなトレンドを象徴する存在だった。彼は、既存の企業から醸造業界に参入したのではなく、妻のさゆりとともにゼロからベアードブルーイングを立ち上げた。外部からブルワーを雇うこともなく、自らアメリカで正式な醸造トレーニングを受け、自家醸造で経験を積んでいた。市場で確立された流行のビアスタイルを追うのではなく、自らが本当につくりたい、そして飲みたいビールを醸造することにこだわった。筆者は、同じような独自の道を歩んだ人物として、志賀高原ビールの佐藤栄吾を思い出す。彼らのような革新者たちが、2000年代の日本のクラフトビール業界の発展を大きく後押しした。
ブライアン・ベアードは海外出身でもあった。2000年代初頭には、1990年代に活躍していた「助っ人醸造家」のほとんどがすでに日本を離れていた。しかし、その後も新たに日本にやってくるブルワーはいた。彼らの中には、ベアードと同じ起業家精神を持ち、日本に根を下ろし、ブルワリーを開業して母国の伝統的なビール文化を日本に紹介していった。
2000年代にクラフトビールの発展を促した要因は、大きく2つある。ひとつは、クラフトビールを専門に扱うビアバーの台頭だ。現在ではクラフトビール専門のバーは全国に数千軒も存在し珍しいものではなくなったが、2000年代後半でも数十軒程度しかなかった。当時はすべての店舗を訪れることも可能で、実際にスタンプラリーまで開催されていた。こうしたビアバーの運営者たちは、独自の道を切り拓く先駆者だった。まだ一般の消費者には浸透していなかった高価格帯のクラフトビールを積極的に売り出していたのだ。中でも、まさにビアバーのボスともいえる存在が、東京の両国にある「ポパイ」だった。強い信念を持つ青木辰男が経営し、約70ものタップを備えた伝説的なビアバーとして名を馳せた(ちなみに、青木は2009年に筆者が本誌を創刊する際、背中を押してくれた人物でもある)。こうしたビアバーは、ブルワリーにとって販売経路を提供するだけでなく、顧客からの貴重なフィードバックを得る場にもなった。
もうひとつの要素は、ビールイベントの開催だ。現在では毎週末のように各地で開催されているが、2000年代にはまだ多くの消費者にとって貴重な体験だった。ビールフェスティバルが開催されるのは、地方都市でも年に数回程度だった。筆者は、2009年の東京リアルエールフェスティバルで、本誌『ジャパン・ビア・タイムズ』の創刊号を発表する機会を得た。このフェスティバルは、ブルワリー、小売業者、消費者が一堂に会する活気あふれるイベントだった。こうしたイベントを牽引したのが、日本地ビール協会(現在のクラフトビア・アソシエーション)を設立した故・小田良司だった。彼は、全国で人気のBeerFes(ビアフェス)を展開し、大勢の参加者を魅了した。まだ知名度のないブルワリーが、消費者や新たな仕入れ先を探している小売業者に発見される貴重な機会となった。特筆すべきは、小田が1995年に日本地ビール協会を設立し、クラフトビールブームの到来を予見していたことだ。
2000年代のどこかで、アメリカから「クラフトビール」という言葉が日本に持ち込まれ、定着しはじめた。本誌『ジャパン・ビア・タイムズ』の取材および、当時一橋大学大学院商学研究科の教授だったジェスパー・エドマンとクリスティーナ・アフマジアンの研究によると、コエドビールのCEOである朝霧重治が、「地ビール」と「クラフトビール」を明確に区別する発言をした最初の人物とされる。彼は、観光地向けのイメージが強かった地ビールから焦点を移し、品質を前面に押し出した。とはいえ、当時すでにアメリカのクラフトビール文化を知る醸造家も存在していたし、ビールツアーのためにアメリカを訪れる人たちも増えていたことを考えれば、クラフトビールという言葉自体は以前から一部では知られていたはずだ。重要なのは、日本のクラフトビール業界が品質を重要視し、その結果が実を結びはじめていたということだ。
2010年代初頭には、一般消費者もクラフトビールに注目しはじめた。レストランやボトルショップ、さらにはスーパーでもクラフトビールを見かけるようになり、メディアで取り上げられることも増えていった。しかし、業界にとって大きな転機となったのは、キリンのクラフトビール市場参入だった。2011年にその計画を立ち上げ、2014年にスプリングバレーのブランドを発表した。さらに2015年には、東京の代官山と横浜に直営のブルーパブをオープンした。この動きは、少なくとも日本のクラフトビール業界に長年携わってきた醸造家や小売業者の間で物議を醸した。小規模ブルワリーが築き上げてきた市場に、大手が利益目当てで参入したのではないか? それとも、キリンの参入によってクラフトビール市場全体が注目され、業界全体の発展につながるのではないか? これらの問いが、業界内で大きな議論を呼んだのだった。
この話の続きは、次号(パート2)でお届けしよう。確かなのは、クラフトビールが現在の形で日本にしっかりと根付いたということだ。


